2005年 07月 01日
バーナード・ラウン著(ハーバード大学名誉教授・ノーベル賞受賞) 私がこのような話をするのは、楽天主義と安心感を患者に伝えることの人切さを強調したいということもあるが、医学はほとんど未知の海を航海するようなものだということを知ってもらいたいためでもある。この科学時代に、あてずっぽうで治療するなどということはなくなったと思う人は多い。医師は正しい検査を選択し、コンピューターが正確な診断をプリントアウトし、どんな病気でも効果的に治療できると思われている。もしそれが事実なら苦労はない。将来的にも、それほど事が簡単になるとは思えない。いわゆる医学的事実というのは、生物学的近似値である。結果のデータや予後は統計的なものなので、おのおのの患者が実際にどういう経過をたどるかは、幅広い選択肢の中から予想しなければならない。ベテランの医師はよく承知しているが、科学的に確実に予想できる症例など、ほとんどない。 患者の治療を効果的に行うには、癒しの芸術(アート・オプ・ヒーリング)をわきまえなければならない。それには経験がいる。類似の症例を思い起こし、常識も働かさなければならない。謙虚さも大事だ。どのような処方箋を出すにしても、どのような助言をするにしても、推測の部分が大きいことを忘れてはならない。ますます多くの医学的データが、大きな集団を対象に疫学的調査を実施して収集されるようになった。しかし医師は、唯一無二の個人を相手にしている。その個人が標準の統計分布曲線のどの位置にあてはまるかは、だれにも断定できない。統計は確率的な真実を示すが、患者の魂も個性も統計にはあらわれない。 仕事に忠実であろうとする医師は、確信を持ちたいと願いながら、疑念にさいなまれる。しかし確信が持てなくとも、治療はすぐに行わねばならず、患者の治癒を真っ先に心がけねばならない。医師の仕事の真髄は、病状が充分に把握できないときに、いかに対応するかにある。治療方法は、すぐに処方しなければならない。研究結果がはっきりするのは何年先かわからないのに、痛みをそれまで放っておくことはできない。また、多くの症状は、それぞれの患者に特有の、医師が初めて見るものである。このような病気は統計をいくら振りまわしても克服することができない。データはしばしば主観的で、患者は自分自身の対照群にならねばならない。また、教科書に治療法がない病気は、どのような処置をとるか、独自に模索しなければならない。客観的なデータがない場合、それにとって代わる主観的な漠然としたものを探すようになる。 確信が持てない場合、医師は患者の立場になって公正な判断をしなければならない。意見を主張するときは、患者への思いやりが必要だ。医師はそうして初めて、人間の決断にともなう苦しみと不条理を、どうにか乗り越えることができる。 _________________________________________ 特に痛みは個人差が大きくまた客観的に表すことができない。統計的な結果は「その患者さん」には意味がないこともある。 癒しの芸術(アート・オプ・ヒーリング)は大学では研究のじゃまなプラセボとして排除される。また保険診療では性質上、それの評価はされない。 医学生は理路整然とした科学に憧れる。
by junk_2004jp
| 2005-07-01 13:31
| 医療不審
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